『羆嵐』を再読

f:id:poyopoyojinsei:20200113233720j:plain

羆嵐 - Wikipedia

吉村昭 『羆嵐』 | 新潮社

三毛別羆事件 - Wikipedia

こちらのWikipediaは名作と言われてるが閲覧注意ですわね。。

今回の日記でもちょっと恐ろしい、残酷なことについて触れています。

 

この前『史上最強の人喰い虎』を読んでから再読したくなっていた。

 

karasuandusagi.hatenablog.jp

  

karasuandusagi.hatenablog.jp

 

色々思うことがある。

読書のたびに色々考えさせてくれる本が、私は好きだなと思う。今回のように、ほかの本を読んでいたら思い出して、また読み返したくなるような本だけを、私の本棚には置いておきたい。

本だけでなく、映画や、アニメや、漫画や、ゲームでもそう。時間を置いて2周目を楽しむということをスタンダードスタイルにしたい。私はコンテンツを消費するのでなく鑑賞したい。ということをよく思っている。もちろん最近のめまぐるしい流行のスピードについて行くにはいろんなつまみ食いも必要にはなるのだろうけれども……。最近のコンテンツは最近の文脈の上に築かれているから。。新しいものが好きー! となっても語るための材料が足りないんじゃぐぬぬ状態になってしまう。

パワーとスピードを両方兼ね備えたいよね。そりゃあみんなそうだよね。どちらかというと私はパワーの方を大事にしたいなという話だ。

 

前回に読んだときよりも、今回強く印象に残ったのは、クマが人間を殺し、食ったあとの有様の描写だった。残酷な描写だ。想像するだけで辛いものがある。

前回読んだときはまだこどもが生まれていなかったと思う。このアンテナ感度の変化にはこどもとの生活が関わっているような気はする。『羆嵐』は実話に取材した小説だが、この事件ではこどもも多数殺害された。そして殺され、食われ、狙われた大人は私のような女たちだった。

『史上最強の人喰い虎』では、読書日記で触れたが、その殺害のやり口を殊更恐ろしく描写していた。それを読んだ影響もあるかもしれない。

 

羆嵐』では最後、嫌われ者の熊撃ちによってクマは殺される。このシーンは前回も印象に残ったが、やはり今回も胸が熱くなった。一言でいうと「静けさ」なのだ。こんなに話してもなお読む価値はあると思いますよ。体裁としての小説であることに優れた小説はネタバレなどというものによって一切傷つかない。

『史上最強の人喰い虎』は小説ではないけれども、このときも虎が撃たれるシーンでは胸が熱くなった、と前の日記に書いてあるね。こちらには静けさはないのだけれども。事が為されたというそれだけのことに対する感動。

前回読んだときは、この熊撃ちが集落を去るシーンにもかなり考えさせられた。国語の授業で扱ってほしいね。熊撃ちの心境を考えなさい。(よくある話題だけど、こういう心境を考える系の「問題」、点数をつけるようなことじゃないからテストに出すのは問題外だが、とっても大事な問題だと思う。いろんな可能性を考えて人間というものへの理解を深めたいよね)

 

そいで殺されたクマは食われるのだ。それがクマに食われた人間への供養になる。アイヌの習わしだそうだ。

ジビエだね。

 

私が今回一番思ったのは、前買い物日記にも書いたのだけれども、「肉を食らうとはどういうことか?」ということ。

karasuandusagi.hatenablog.jp

 

以下、ちょっと本の内容からはかけはなれた作文になります。

 

クマは人間を殺して食った。女の肉の味を覚えたので女を狙っていたという。男児の肉にはほとんど手をつけなかった。女はかなりきれいに平らげたようだ。別の食べ物のように思われたのだろうか? 虎と同じだとしたら、普段人間のことは食物に見えていない。女を食べたら味がした、だから女を狙った。大人の女はにおいがするからわかりやすい、それだけのことかもしれない。詳しくはわからない。

 

ヴィーガンの人なんかは動物がかわいそうだと言って肉を避けている……のだろうか? 自然界では動物は動物に憐れみをかけることはない。自分や家族が生きるために、食べられるところを全部食べる。

動物に感謝すべきだろうか? 感謝すれば肉を食べることを許されるのだろうか? 人間は人間が食らうことを許すだろうと思う。クマが人間を食らうことを人間は許さないだろう。たとえクマが殺した人間に感謝を抱いていたとしても。

クマは人間より強いが、人間のことをかわいそうだなんて思わないだろう。

 

肉を食う人間は常に自分たちが捕食者であり、殺す側であることを意識し続けなければいけないんじゃないかなあと思う。そして殺す側であり続けるぞという強い意識。自分たちが庇護者であるという奢りはいつか自然と人間を分断し、地球環境の持続に大きな問題をもたらす気がしますわよ。

いまどきなかなか自分で手を下すことはないし、私もやれと言われたらきつい。釣った魚を撲殺するのもきつい。鶏殺せない気がする。たぶん、それは恥だ。殺害行為は代わりに誰かがやってくれているのだが、その感覚を失うと、自分が自然とは離れた、崇高者たる人間であるというような錯覚を抱いちゃうんじゃないかと思うわ。

肉食をやめることが、もちろん嗜好や体調の問題である人もいると思うけれども、傲慢によるものである場合は、危険だと思うわ。おかま口調になっちゃう。でも自分が戦いの渦中に置かれ続けることの恐怖というのはあるかもしれない。

 

もうちょっとこのことについて考えたい気持ちです。

そのうちジビエのお肉食べてみたい。