休憩

ひといきです。

 

体調を崩したり生活リズムが乱れたりして、自分に課している日課の達成状況がボロボロになっちゃった。日記をいつから書いてないかわかんない。でもこれから書くつもり。あまり毎日を丁寧に生きるのが得意じゃないから、毎日の仕事はあらかじめ決めておかないと、すぐに月日が経ってしまう。

なんども書いているけど碇を下ろす行為だから。ブログもこんな愚にもつかないことしか書けない日でも、なるべく書いたほうがいいと思って書いている。リズムをつけることになると思っている。自分でも不器用だなと思うけど。決めたことがうまく回せていないときは少し見直す時間をとったほうがよさそうだ。

 

そんな感じで明日漢検受けにいきます。落ちそう〜。

ちょっとへとへと日記

※今日の日記はぽんぽんぺいんの話を多分に含みます。

 

いろいろへとへとなことが続いて疲れました。

ふー。

へとへとなことのひとつが自分の体調不良。

 

自分の体で気になるところが二つある。

 

まず、おなかが弱い。

大好きな牛乳を飲む量を減らすことで、突然おなかがゴロゴロとなってしまうことはだいぶ少なくなった。牛乳大好き人間だったころはしょっちゅうげりぴしていたぜ。まあそれは実際日常茶飯事みたいな感じだったからそこまででもなかった。

でも、胃腸炎? みたいになってしまうことが多くてつらい。下痢と嘔吐ですね。熱が出たりもする。汗をかいて、呼吸が苦しくなって、目の前が暗くなって……副交感神経のスイッチべた押してきな……そういうやつです。食あたりっぽいけど、あんまり原因わからないことが多い。そういうのにめっちゃなりやすい。1年に1回はやってる気がする。

お酒もおなかにダメージでかい。酔って吐く人はどこにでもいるけどあんまり酔っておなか壊す人の話聞いたことないような気がします、どうだろ?

 

次、熱が出やすい。

今までこんなこと全然なかったんだけど、子供が生まれた後くらいから増えました。咳も鼻水も出ないので風邪じゃないと思うんだけど、熱が上がる。38.5は超える。何よりもしんどいのが脚の骨が全部痛くなること。転げまわる。1~2日でよくなることが多いけど、なんなんですかね? ほんと。去年の夏は3日以上倒れてた気がする。

大学生のころ、1回これで病院行ったらけっこうしんどい病気だったことがあるので熱全然下がらない人は注意ですよお

 

今回も胃腸炎からの熱コンボで終わってたんだけど、インフルエンザは陰性でした。ほんと熱の原因はとっても謎です。食あたりかな。やっぱ。

すぐ隣の国の言葉

日本のすぐ隣の国といえば、中国、韓国、北朝鮮。あとロシア(東北出身者並みの感想)。最近は街中でも中国語やハングルを見かけることが多くなってきた。さっきもドラッグストアで中国語の表示があった。マスクは1家庭1個まででお願いします的な意味だと思う。なんか読めるよね。意味とか雰囲気でわかる。

でもハングルはぜんぜん読めない。感覚で言えば線文字Aとかヒエログリフに近いくらい読めない。一番近い国の言葉であるはずなのだが……。まだラテン語のほうが意味わかるまである。なんならギリシャ語でもまだわかる。

中国語は前からよく見たけど、ハングルはけっこう、最近増えてきてるのかなって印象がある。

最近の若い人の間では(私も若いつもりなんですけど……)英語よりハングルのほうがかっこいいというか、流行っているんですって。と聞いたことがある。アイドルとか流行っているもんね。

韓国のアイドル(男の子)はちょっと見たことがありますが、MVとか確かにかっこいいもんね。若いし。日本のアイドル界をおじたちが席巻しているのでなおさら……。(いや……すのーまんとかすとーんずのデビューで盛り上がる世界も私の目にはちゃんと映っているけど!)

で、昔から名前をローマ字で表記したりするのは見栄えのためにやってたと思いますが、最近はハングルで名前を書く人も多い雰囲気。twitterとか見てると思う。

私には読めないので、なんだかそれが奇妙に見えてしまったりするのだけど、どうしてこんなに近いのに遠いんだろうっていうのも不思議なことだ。

だから、ちょっとだけお勉強してみたいな……って気持ちになっている。すぐ隣の国だし。流行りもあるし。アートはかっこいいし。映画とか音楽とか。日本と韓国の間は、よくいざこざが起こっていて、政治家にはときどきうんざりすることもあるけれど、だからこそ少しは理解を深めてもいいのかなと思うし。

そんなわけでちまちま学習アプリで読みの勉強してみていたりします。ハングルって全部ひらがなみたいなもんなんかな……? 長文とか読みづらくないのかな……。昔出会った日本語に堪能な韓国人の方が、日本に留学するとき初めて自分の名前の漢字表記を知ったと話していたのをぼんやり思い出す。

でもまず週末の漢検の勉強をしろ。

感想書く前に本返しちゃった

 

karasuandusagi.hatenablog.jp

 

先日の絵本読み合い研究の本のこと。細かいところはおいておいてなんかメモをのこしておこっと。

 

しばしば「育児書なんてそれぞれに別のことが書いてあるし、読む必要はない」ということを聞く。それは「育児に正解はない(から多少、失敗したかなと思ってもくよくよしないでがんばろうよ)」というポジティブな文脈で語られる。

私はそれに「うんうん」と賛同しつつも、ふたつのことが気にかかっていた。

まずここで語られる「育児書」とはどういう類のものなのか。こんな普通のかあちゃんが息子を全員東大に入れました〜! とか、子供を医学部に入れたいのなら幼児の頃からこれをやらせろ! みたいな本は育児書だとは思わない。それはどちらかというとブログの書籍化とかに近いものだと思っている。あるいはほのぼの系ノンフィクション。少なくとも「育児」あるいは子供の発達や成長について専門的に研究している人が書いたものでなくては、知識の拡充を目的に読む価値はないのではないだろうか。と思った。

もうひとつは、本当に育児書には異なったことばかりが書かれているのだろうか。もしそうなのであれば、子供に関する研究はほとんどが失敗してきており、教育学部家政学部の類は、不要なのではないだろうか。しかし、そんなはずはない(最近揺るがされているけど、権威あるものにはそれなりの理由があることが多いって思うタイプ。。。。。)。少なくとも、何種類かの意見、言うなれば派閥というか、仮説にまとめられるのではないか、そしてそれらを知っておくことは子供を育てる親として無益ではないんじゃないか。と思った。

 

ちなみに、その方向性で行って、今までに読んだことがあるのは、

3000万語の格差 - 株式会社明石書店

のみ。これは子供が生まれる前に読みました。子供の人工内耳移植をしていた医師で、のちに子供と言葉の関係を研究する社会学者になった著者の本。子供も生まれたし時間を見つけて再読……したい……いつ……? 面白い本だったから。

あとは実家に松田道雄の本がいくつかあったのを覚えてる。

 

そういうわけでこの『絵本は赤ちゃんから』を読んだ。

サブタイトルにある「母子の」という文言は現代的でないなと思ったけど、内容を読むとこの時点では正しい名前だと思った。この本は1人の子供の追跡研究と、何人かの母親へのインタビューで構成されている。

どれを読んでも、子供と親と絵本との関係は、本当に百種百様なんだろうなあと思った。親のスタンスも、読む本も違うし子供の性格も全然違う。著者は絵本の性質や子供の反応のタイプなどを収集しているようだが、それも今目の前にいる子供を「どう育てるか」などの答えを出してくれる類のものではなさそうだなあと思ったよ。

私はずっと感じていることだけれども、やはり育児には方法論を求めるのではなくて、子供本人に向き合って、いま何をしたらいいのか(それは将来のためとか、知能発達のためとかではなくて)を判断すべきなのだろうな。というのを再確認した。

 

しかし親の中には子供と向き合うとか……わかんないよお! 大人だし! みたいな人はけっこういると思う。私は比較的子供のまま大人になってしまったタイプなので、あまりその点苦労した覚えは(今のところ)ないけど、外出て子供が泣いちゃったらGoogleで子供の泣き止ませ方調べるって人もいるみたいだから。

 

そのためのツールとして絵本が便利なのかなと思った。絵本は大人にも意味わかるし、子供にとっても、意味わからなくても少なくとも物質。視覚刺激もあるし、読んでれば親の声も聴けて、という感じでコミュニケーションツールになる。

わらべ歌とかでももちろんいいけど、わらべ歌は大人が意味をわかってない場合が増えてきたということが書かれていてなるほどと思った。世代間継承がうまくいってないと。確かにわたしおむつてんてんとか、知らない。そもそも小学生になった時点でアルプス一万尺の手遊びわからなくて友達と遊べなかったからね。そういう親が私だけじゃなくなってきててもおかしくないだろうなあ。YouTubeとかで見ても親の方に実感がないからコミュニケーションとして十分でない。

あと前回の日記にも書いたけど絵本は親が覚えてたら自分の子供時代に想いを馳せることもできる。想像力の助けになるっていうか。

 

そいで最近は「読み聞かせ」じゃなくて「読み合い」って言葉がよく使われるようになった、というのもへ〜って納得した。これからは私も「読み合い」って言おう。確かに、言って聞かせるだけではないから。

 

ほかにも首がもげるほど納得したことがいっぱいある。

最近の風潮では育児にも計測可能な「効果」を求める親が増えているとか。これは超思う、けど最近っていうのは私が生まれたくらいから始まっていたのだろうなとも思う。早期教育とか幼児教育みたいな。絵本を読むと言葉を早く覚えて勉強もできるようになるから絵本を読もう! みたいな、そういう因果関係がありそうなことしかみんなやりたがらないっていうか。脳にいいとか。発達にいいとか。そういう系の理由ばかり求める。かつなんかできないとすぐ発達障害が疑われる(いま認知と理解の過渡期なんだろうね)。

子育てに効率化は存在しないとか。やってはいけないことがはっきりしてくることや発達の過程が研究され人々に伝わることは広義の効率化なのかもしれないけど、技術発達によって生み出された時間をこれまで割けていなかった子供との時間に使うべきということなのだよね。

ほかにも色々あった気がするけど忘れた。

 

 

乱雑なメモだけど書かないよりいいし……

ここ数日具合悪かったり生活リズム崩したりでボロボロとなっていたけど持ち直していきたいです。

絵本の思い出

いま、絵本に関する本を読んでいる。

www.shin-yo-sha.co.jp

『絵本は赤ちゃんから』という本で2006年に出ている。もはや今、絵本は赤ちゃんからって早すぎない? という考える親は母さんは少なくなっているだろう。私の住む自治体でもブックスタートというのがあって絵本は赤ちゃんから読んでいいんですよ~という話があった。社会ではいろんな理解が時間とともに進んでいる。FACTFULNESSを読んだみなさまにはお分かりのことだと思うけれども。14年が経過して、「絵本は赤ちゃんから」というタイトルはやや時代遅れになりつつある。と思う。

でも私の考える、なぜ絵本を読むのか? という問いに対する回答のいくつかを補強してくれるようなことが書いてあり、なんだか心強い。もちろん正解はないんだけど、納得できるな~と思える仮説は私の意見としても採用していきたいと思うわけ。

この本を読むに至った理由などはまた後日書きたい。いろいろ考えることがあったため。

 

この本は大学教授である著者が観察研究やインタビューをもとに作った本だが、著者は一人の親でもあるので、ところどころに自身の経験なども挟み込まれている。

 

わたしは孫が絵本を読むようになったとき、和田さん(※インタビュイー)と同じように娘がとても愛着を示していた加古里子の『ことばのべんきょう1・2』(福音館書店)を、お下がりとしてそのまま送ったことがあります。すると、孫はそれほど興味を示さなかったのですが、娘のほうがとても懐かしがり、手あかの付いた絵本を何度も開いたようです。娘は自分の中の幼児期を鮮明に蘇らせつつ、自分の子どもの幼児期と付き合うというように、幼児期体験が入れ子構造になり、わが子への想像力が広がったことと思います。(p114)

 

という部分があった。私もこの前実家に帰って、自分の読んでいた絵本をいくつか出してきて持ち帰ってきた。中には自分では全然覚えていなかったのもあるんだけど……

 

www.kaiseisha.co.jp

 

この『いただきますあそび』。私はあんまり覚えていなくて、でも最後の最後のページを見て一瞬で思い出したんだよね。「おなかいっぱい いいきもち」で終わるの。

この「おなかいっぱい いいきもち」って、私は割ともう体に刻み込まれてて、現在に至るまで、おなかいっぱいおいしいもの食べたときは「おなかいっぱい いいきもち~」などと口に出すくらい自分の言葉になってしまっているのだよね。

というわけでなつかし~~~って気持ちになってたんだけど、でもこれ自分が懐かしくて楽しいだけでは? という気持ちもよぎらなかったわけではない。

 

だけど昔の絵本を引っ張り出してくるのはそれでいいのだよね。という話で、親のほうが遠い子供時代を思い出す手がかりになっているわけだから、親のために古い絵本が読まれるわけ。大人になって忘れてしまった子供時代を思い出すことで、子供の気持ちを理解する助けになると。

 

あと、どんな書物でも読み深めるという作業が可能なわけで、先に読み深めている教師がいると読解って格段にはかどるよね。そして同じ書物を読解しようとしている仲間がいるとその効果・効率って倍々ゲームみたいになってくと思う。それと同じで絵本も先に噛んでる人がいるともっと楽しく読めるのかな。とかも思う。

さらにいうと大人ってほかにも楽しいことがいっぱいあって、新しく出会った絵本(しかも子供向け……)などをじっくり読んだり理解しようとしたりする時間が取れなかったりして。その点、子供のころ読みこんだ絵本はその時間が稼げるかなーとも。

 

最近の新しい絵本はかわいいのいっぱいでほしくなるし、そういうのも楽しいのだけれども、古い絵本、時代とともに消えていかない絵本を取っておくのにもちゃんと理由がつくかなーって思いました。!

 

この本に関してはつづく。

近況報告

  • 漢字検定を受けようと思っています。来週末。間に合わない。というわけで勉強中。勉強時間を記録すると計画を立てやすいなあと思った。だが、もうすでにその段階ではない。
  • 積読本を本当に積むようにしたら何かが可視化された。
  • 環境問題まわりのことを調べたいなーと思えば思うほど誰も正解を知らない沼の深さにたじろいでしまう。一筋縄ではいかない科学の深淵だ。自然科学のみならず社会科学も巻き込んでいかないと解決できないんだなあ。だが関心がある層はあまりアカデミックではない人々が多く、検索結果はグチャグチャだし、独自研究や専門家の意見が乱立していて混沌。詐欺と宗教のマーケット。良識ある人は目を背けている感じがする。それは良識なのかどうかは皮肉でなく本当に不明だが。地球こそがラスボスだったのだなあ。
  • 都市部で生協に加入する意味、メリットが全くわからない。すすめられるがままに加入して、いま子供がいるので手数料など無なのでそのまま入っているが、まったくメリットがない。まず来週のこの日にほしいものとかわかるはずがない。都会なんでスーパーもすぐそこにあるし今日の献立はこれにしようとおもったら買いに行ったほうが早い。働いている人は便利とかいうけど本当か? そして箱ティッシュなどの安価な商品を餌に保険に加入させようなどの意図はちょっとだけむかつくけどこれは言いがかり。ごめんね。担当の人はいい人なので逆にやめづらさがある。。。
  • マスクの感染予防効果はコストを考えるとないに等しいということを大学で習ったのでそのまま信じてきたけど最近は症状がない人もマスクをしましょうということになってるんですね。知識のアップデート、完了! していない。勉強が足りない。大学のときはあんまり興味なかった費用効果分析みたいなやつに卒業してから興味出てきたなあ。世界を変えるのは物質や技術の発見もあるけど方法の発見もある。方法を発見するほうが1回の寄与はでかい気がする。もちろんどちらかに限らなくてはいけないいわれはないのだけれども。
  • アイドリッシュセブンの楽曲がサブスク解放されたらしいので聴いてみてください。先月発売したばかりのRe-raiseも聴けます。

『キャパとゲルダ』を読んだよ日記

出版社リンク

あすなろ書房【キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン】

 

現物画像

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初期ゲルダ・タローが正方形写真の使い手だったらしいので

ロケ地:スターバックスコーヒー秋田広面店

 

 

第二次世界大戦に先立つスペイン内戦を舞台に、黎明期の戦場カメラマンとして活躍したロバート・キャパ、そしてその恋人であり、相棒であり、ライバルでもあったゲルダ・タローの物語。

ゲルダ・タローはまた、女の「家庭にあって男の影に隠れているもの」という像がまだ主流であった地域も多い時代において、男と並び先陣を切って仕事をした、「新しい女性」の筆頭でもある。彼女は、まだ女性がようやくズボンをはき始めた国(それも革命的象徴として)において、カメラを持って戦場の前線を駆け回り、そして戦争によって死んだ。

 

文章は易しく、著者がヤングアダルトを主に手掛けていることもあってか、子供でも読めるだろう。小学校高学年~中学生くらい。出版社サイトには中学生~と書いてあるね。

またいろいろ考えさせられるし、近代史のお勉強にもなるので、中学生あたりオススメ書籍ですよお! お父さん、お母さんも読んでみてね。

 

ゲルダについて

キャパよりはどちらかというと、タローの方に重心がかかった本のように思われる。それは、今までキャパばかりが語られ、タローはその陰に隠れがちであったというのが理由であるかもしれない。私はちなみにロバート・キャパのことも全然知らなかったが、報道史・写真史上は重要な人物であるようだ。タローに関する研究は、最近増えてきたということが文中でもほのめかされていた。裏を返せばあまり研究は進んでいなかったということになるだろう。

この本の著者も、夫婦であり、ビジネスパートナーでもある二人組の共同作業だ。彼らが「キャパとゲルダ」に親近感を感じたこともこういう題材になった理由だと思う。

また「働く女性」、男女が同じように参画する社会について語る上で、タローについて知ることは重要かもしれないと思う。ただ、私の場合、それに関してはネガティブな印象を抱いた。

 

本文中でゲルダ・タローは「タロー」と表記されている場合が多い。ロバート・キャパを「キャパ」と書くのと同じだ。しかし、日本語版タイトルは「ゲルダ」とファーストネーム呼びになっている。

キャパの付属品ではなく一人のカメラマンとして自立したかったことがうかがえるゲルダ・タローとしては、これはどうだろうか?

結局、愛に生きたのはどちらかというとキャパの方であり、長く生き延びたのもキャパであり、名声を得たのもキャパである。

また、戦場カメラマンとしての名声も高まりつつはあったものの、結局ゲルダ・タローは、前線に立ち兵士たちを勇気づける戦乙女、ジャンヌ・ダルク的存在として愛され、殉教者としてその死が人々に嘆かれた。自分も、自分のかわいらしい容姿、そして女であることを十分に利用して仕事をしていたように見えるし、十分に利用して、共和国軍の勝利に貢献しようとした。

 

良くも悪くも、女という属性からは逃れられない、と感じ、それは少し残念な気持ちを私に抱かせた。ゲルダ・タローは、やはり「タロー」であるより「ゲルダ」になってしまうのかな、後世から見ると。

タローのようにあの時代にズボンをはいて髪を切り、前線をも駆け回り、結婚すら断り、恋人からの自立をはかった、職業婦人としてはかなり強い存在であった人さえも。

ただ、それは女の女としての戦い方であり、それくらいしたたかになってもいいのかな、とも思う。私は女の立場について、自分の意見を決めかねているところがある。どちらかといえば、性別に関係なく、その人にあった場所、望んだ場所で輝ければいいんじゃないかな、と思う。そして、男女それぞれ、性別による適正は存在するようにも思う。だからゲルダ・タローの扱われ方について、残念に感じたことは、自分でも発見だった。

 

しかし、男女ともに、性別を完全に超越し個人としてだけ認識されるのは、なかなか難しいのかな。と思った読書体験でした。

 

スペイン内戦について

恥ずかしながら告白すると、私は近代史雑魚すぎて、第二次世界大戦が開戦にいたった経緯や、その中でのスペイン内戦の位置づけについても全くわかっていなかった。この本ではスペイン内戦の意味や世界においてどんな状況があったのかもわかりやすく説明してくれた。

私はピカソゲルニカという絵をビジュアルとしてはよく知っていたが(割と細かく覚えてたと思う)、何を知っていたんでしょうね。

すると、現代におけるシリア内戦、年始にあった衝撃的な攻撃、それを受けて世界の人々が第三次世界大戦を恐れた理由もわかってきた。

そして「不干渉」や中立(?)の意味も、この本を読んでから変わって見えてきた。

歴史を学ぶことの意味を実感したし、私の不勉強、無教養を改めて恥ずかしく思った。

 

以上、いろいろ考えることのある読書でした。

平易な文章で、内容も分かりやすく、子供でも読めると思うけれども、考えることがたくさんあって、割と時間がかかったよ。